斎藤 与里(さいとう より)の絵画買取なら高額査定の可能性!SATEeee絵画買取へ
1.斎藤 与里の絵画作品を売りたいお客様へのご案内
斎藤与里は画家として知られるほか、美術評論家としても活躍しました。フランス留学があり、西洋美術に直に触れましたが、既存の技法や流行のスタイルにとらわれることなく、オリジナリティあふれる画風を確立しました。同時代の近代洋画壇を牽引した画家たちに比べるとさほど知名度は高くないものの、独自の画境を築き上げた作品が今後再び注目され、人気が高まる可能性もあります。
このページの目次
2.斎藤 与里という絵画作家について
初期の頃は柔らかい光線を意識して描いた女性の裸婦像や、落ち着いた色調の群像も手がけていますが、しだいに陰影の少ないはっきりとした色づかいを用いた表現に変化します。人物表現も写実を離れて形態が単純化され、独自性を極めていくようになりました。また斎藤与里は文筆業の功績もよく知られています。『早稲田文学』や『白樺』への寄稿を通して、海外で新しい現れた芸術の潮流をいち早く日本に紹介しました。さらに『中央公論』や『婦人公論』などの文芸雑誌にもしばしば寄稿し、芸術だけでなく文芸の評論や社会時評の分野においても活躍した人物です。
3.斎藤 与里の絵画作家についての経歴など
斎藤与里は1885年に埼玉県北埼玉郡下樋遣川村(現在の加須市下樋遣川)に生まれました。1905に京都に移住、浅井忠や鹿子木孟郎に洋画を学びました。1906年には鹿子木とともに渡仏。帰国後は雑誌『白樺』で、ゴッホ、セザンヌ、ゴーギャンなどポスト印象派の作品をはじめて日本に紹介した人物としても知られます。1912年には、岸田劉生、高村光太郎らとフュウザン会を結成。また1924年には美術団体の槐樹社を設立、機関誌『美術新論』で美術評論も行いました。槐樹社の解散後は、東光会を創設しました。一方大阪美術学校の創立にも協力し、1926年に教授に就任。1959年には加須市名誉市民に選出されましたが、同年74歳で亡くなりました。
4.斎藤 与里の絵画代表作品とは
- 収穫(1916年)
- 晩秋の赤城山(1946年)
- 秋海棠(1950年)
- 読書する少女(1955年)
5.斎藤 与里の絵画作品の買取査定ポイントを解説
まずは本人による作であることが最も重要視されます。証明書や鑑定書があるか、来歴(入手経路や過去の持ち主など)がはっきりしていることも査定のポイントとなります。画面に汚れやシミがなく退色が少ないなど、作品の状態が良好な場合や付属の箱がある場合には、さらに査定額が高まる可能性があるでしょう。
代表的な絵画作品の査定ポイントはこちら- 本人の作品か(鑑定書や証明書はあるか)
- 保存状態は良好か(作品にダメージがないか)
- サインがあるか
- 作品の号数
6.斎藤 与里の絵画作品の取引相場や参考価格
代表作『収穫』はコロタイプの印刷品が作られるほどです。ヤフーオークションでは印刷された作品であっても2万円〜3万円ほどの値で販売されているものがあります。古美術商では真作とされる油彩の風景画に58万円の値がついた例もあります。こちらはサイズが10号、状態が概ね良好で、画面に本人のサインが入っているものでした。買取においても斎藤与里本人の作品で、状態の良いものには査定額が数十万円ほどになることも珍しくないでしょう。
7.斎藤 与里の絵画作品の買取についてのまとめ
アカデミズムに倣うことなく独自の表現を生み出し、美術界のなかでも異端の存在であった斎藤与里。ユニークな趣の作品は一度見たら忘れられない不思議な魅力にあふれています。作品によっては印刷品も出回っていますが、1点もののタブローとなればぜひとも手に入れたいというコレクターが存在し、高値が期待できます。状態の良い真作であれば、思いがけない高値がつくことも考えられるでしょう。
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