Paul Klee(パウル・クレー)の絵画買取なら高額査定の可能性!SATEeee絵画買取へ

1.Paul Kleeの絵画作品を売りたいお客様へのご案内

パウル・クレーは、20世紀前半、主にドイツで活躍したスイス生まれの画家です。キュビスムや表現主義、シュルレアリスムなど同時代の様々な芸術運動に影響を受けつつも、独自の絵画世界を構築し、詩情あふれる、ときに哲学的な作品を数多く制作しました。新聞紙や紙、布など様々な支持体に、油彩やテンペラなど多様な技法を用いて描き出された多彩なイメージは、展覧会でもたびたび紹介されてきた日本でも人気の画家です。

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2.Paul Kleeという絵画作家について

パウル・クレーは、生涯に9,600点あまりの作品を制作し、それらを自ら等級付けして、流通や価格を管理していました。初期には銅版画やガラス絵などの技法を用い、線描による風刺的なイメージを制作していました。「青騎士」での活動やチュニジア旅行を経て色彩への関心を強め、色とりどりの色面を組み合わせた半抽象的な作品を描くようになります。クレーの技法は一般的な油絵や水彩にとどまらず、作品の転写や切断、コラージュなど多岐に渡り、そのすべてが画家の個性を形作っています。

3.Paul Kleeの絵画作家についての経歴など

パウル・クレーは、1879年、ベルン近郊の音楽家の一家に生まれます。1898年に画家を志してミュンヘンの画塾に通い、1900年に同地の美術アカデミーでフランツ・フォン・シュトゥックに学びました。1910年にベルン美術館で個展を開催し、1911年から自作の目録を制作し始めます。1912年、フランツ・マルクらによる「青騎士」のメンバーとなり、1921年にはバウハウスの教授に、1931年にはデュッセルドルフ美術アカデミーの教授に就任しますが、ナチス政権下のドイツを去ることを余儀なくされます。スイスでの晩年にも数多く作品を制作し、1940年に亡くなりました。

4.Paul Kleeの絵画代表作品とは

  • R荘(1919年)
  • 女の館(1921年)
  • プルンのモザイク(1931年)
  • パルナッソス山へ(1932年)
  • 死と炎(1940年)

5.Paul Kleeの絵画作品の買取査定ポイントを解説

パウル・クレー作品の買取査定では、真作であることが大変重視されます。サインや制作年代が記され、クレー自身が作成した目録に記載されているか、来歴や展覧会出品歴が分かるか、確認できると良いでしょう。クレーの場合は、おそらくサイズや技法は基準になりにくく、仕上がりの良いもの、あるいはクレー自身の評価が高いものほど高額に評価される傾向があるようです。日焼けや折れ、破れ、シミ、カビがないかといった作品の状態によっても価格が左右されます。

代表的な絵画作品の査定ポイントはこちら
  • パウル・クレーの真作であるかどうか
  • サインや年代の記載があるかどうか
  • 来歴や出品歴が分かるかどうか
  • サイズは大きめかどうか
  • 状態が悪くないか
  • 出来栄えが良いか

6.Paul Kleeの絵画作品の取引相場や参考価格

パウル・クレーの国内での買取事例はほとんど公開されていませんが、海外のオークションでは、極めて高額で落札されています。2009年クリスティーズで、油彩を主に用いた壮年期の作品『Sollte Steigen』(59.5cm×86.6cm)が、243万7,100ユーロ、約3億円で、同じ頃描かれた水彩作品『Heiliger Bezirk』(45.7cm×34cm)は295万3,000ユーロ、約3億2,000万円で落札されました。クレー作品の評価は、用いられた技法やサイズ以上に、画家の目録に記載された等級が参考になっている可能性があります。220部印刷された銅版画作品『Seiltänzer』(43.8cm×26.7cm)は、約400万円前後で販売された例もあり、真作で状態がよければ高値の買取が期待できます。

7.Paul Kleeの絵画作品の買取についてのまとめ

パウル・クレーは、温かな色使いとどこか儚げな描線を用いた可愛らしい画面の奥に、深遠な哲学を感じさせるミステリアスな芸術によって世界中の美術ファンを魅了してきました。表現主義やバウハウスといった近代美術のメルクマールと関わりながら、近代美術史上、唯一無二の輝きを放っています。真作であれば、きわめて高額の査定が期待できるでしょう。

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