恩地 孝四郎(おんち こうしろう)の絵画買取なら高額査定の可能性!SATEeee絵画買取へ

1.恩地 孝四郎の絵画作品を売りたいお客様へのご案内

恩地孝四郎は抽象的表現を用いた版画を日本に広めたことで知られる芸術家です。日本で「版画」のジャンルが芸術と認められたのは恩地の功績と見る人々も多く、日本の芸術界におけるその影響力はとても大きなものです。版画家として知られる前から装丁家として活躍しており、竹久夢二や北原白秋からも彼の装丁は高く評価されています。非常に人気の高い版画家である恩地の作品は、高額での取引が期待できます。

このページの目次

2.恩地 孝四郎という絵画作家について

恩地孝四郎はカンディンスキーの影響を強く受け、抽象的な表現に傾倒して作品を作り続けました。また、萩原朔太郎の詩集『月に吠える』、『北原白秋全集』などの文学作品の書籍の装丁を多数手がけたことから、日本における創作版画の発展に大きく寄与したことで知られています。とくに戦後、恩地が手がけた抽象版画は日本に駐留していたアメリカ人から高い評価を受け、アメリカ人たちが本国に持ち帰ったことで日本よりも先に海外での評価が高まったことも有名です。

3.恩地 孝四郎の絵画作家についての経歴など

恩地孝四郎は1891年、東京地方裁判所検事の息子として東京に生まれました。父は息子に医師になることを求めましたが、その願いに背いて恩地は1910年に東京美術学校予備科西洋画科に入学し、画家を志します。1911年には東京美術学校予備科彫刻科に入学し、ここで竹久夢二らと親交を深めました。この頃から装丁家としての活躍を始めています。1914年ごろからカンディンスキーなどのドイツ表現主義の版画家の作品に強い影響を受け、前衛版画のを手がけ始めました。室生犀星、北原白秋、萩原朔太郎といった現代詩の騎手たちとの交流も盛んになり、詩集の装丁と同時に独自の版画の世界を追い求めていきます。1915年に発表した「抒情」シリーズは、版画界のみならず近代絵画初期の代表的な抽象作品として評価されています。1918年には日本創作版画協会発起のために山本鼎、織田一磨らに協力し、翌年に展覧会を実現させています。1927年には作品『幼女浴後』が帝国美術院展ではじめての版画作品として初入選しました。1931年に日本版画協会を結成させた後、1934年にはパリの美術展に作品を7作品を出品、1936年にはスイスでの美術展に10作品を出品するなど、海外での評価を高めていきます。1955年に自宅で逝去しました。享年64歳でした。

4.恩地 孝四郎の絵画代表作品とは

  • 「抒情」シリーズ(1914年~1915年)
  • 「リリック」シリーズ(1932年~)
  • 「フォルム」シリーズ(1948年~)
  • 「オブジェ」シリーズ(1954年~)

5.恩地 孝四郎の絵画作品の買取査定ポイントを解説

恩地孝四郎の作品は版画であるため、ひとつの版から多数の作品が刷られた場合は必然的にあまり高額にならない傾向にありますが、その反面、刷られた数が少ないものは高額になる可能性があります。さらにそこに直筆のサインなどがあれば高額での査定が期待できます。

代表的な絵画作品の査定ポイントはこちら
  • エディションナンバーがわかるか
  • サインなどがあるか
  • 鑑定書などがあること
  • 保存状態が良好であるか

6.恩地 孝四郎の絵画作品の取引相場や参考価格

作品は画廊などで主に販売されており、その人気からどれも購入後であるため金額などが開示されておらず、相場を知ることが難しくなっています。こちらは販売額ですが、『泪してあふぐ日』という14.8cm×12.4cmの木版画作品が200,000円で販売されており、その他の作品は十数点にも及びますがほぼ買い手がついております。ネットオークションでは恩地孝四郎自身の手による木版画6画が入った『詩と版画連作集 海の童話』(1934年)に、324,000円の価格で販売されています。恩地孝四郎自刻の版画が10枚入った版画集で1943年に限定250部で発売された『蟲・魚・介 書窓版画帖十連聚 其八』は、180,000円で取引されており、また恩地孝四郎が装丁を担当した希少本ですら35,000円前後もの価格が付けられていました。

7.恩地 孝四郎の絵画作品の買取についてのまとめ

恩地孝四郎の版画は日本の抽象版画の最先端を走り、その道筋を作りました。また装丁家としての業績は、現代のグラフィックデザインの基礎を築き上げたと言っても過言ではありません。日本の前衛芸術の歴史を知るうえでも、商業芸術の進歩を理解するうえでもその作品群は貴重なものです。作品を所蔵されている方は、ぜひ査定をお試しすることをおすすめします。

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