福沢 一郎(ふくざわ いちろう)の絵画買取なら高額査定の可能性!SATEeee絵画買取へ

1.福沢 一郎の絵画作品を売りたいお客様へのご案内

福沢一郎は1898年に生まれた群馬県出身の画家です。戦前の前衛美術運動の中でも重要な役割を果たした人物です。渡仏して学んだシュルレアリスムの手法を応用しながら、日本社会に向けた風刺的な眼差しをユーモラスに表現した作品は、現代でもなお多くの人に驚きを与えています。福沢一郎本人の作であれば数十万円の値がつくことが考えられます。作品サイズが大きい場合や保存状態の良い場合には、評価額が高まる傾向にあります。

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2.福沢 一郎という絵画作家について

東京帝国大学に進学するも大学の講義には興味が持てず、やがて芸術の世界にのめりこんでいった一風変わった経歴の持ち主です。福沢一郎は昭和のはじめに、シュールレアリスムを日本に紹介した人物としても知られています。フランスに渡り帰国後に描いたシニカルな作風がよく知られていますが、戦後の混乱する世相を、ダンテの『神曲・地獄篇』に託した作品や、中南米を旅しそこで目にした人々の生命力に影響され描いた鮮やかな色彩の作品も残しており、時代の空気に敏感に反応し作品制作を続けていたことがわかります。存命中より国立国際美術館や群馬県立近代美術館などで展覧会が開催されるなど、その画業は高い評価を受けていましたが、2019年には東京国立近代美術館にて大規模な回顧展が開催されたことで、再び多くの人に作品の魅力が知れ渡るようになりました。

3.福沢 一郎の絵画作家についての経歴など

福沢一郎は1898年、群馬県北甘楽郡富岡町(現在の富岡市)に生まれました。1918年東京帝国大学文学部に入学し、在学中に朝倉文夫に入門、彫刻家を志しました。1922年帝展出品作の彫刻が初入選を果たしました。1924年にはフランスに渡り、しばらくして絵画に転向。マックス・エルンストやジョルジョ・デ・キリコに影響を受け、古い雑誌の挿絵を組み合わせた作品を制作しました。1930年には独立美術協会に参加します。1931年に帰国。1939年には同会を脱退し、美術文化協会を結成しました。1941年、治安維持法違反により瀧口修造とともに拘禁されました。1952年以降、ブラジルやメキシコも旅しました。1957年に芸術選奨文部大臣賞を受賞。翌年にはヴェネチア・ビエンナーレに出品するなど活躍の場をさらに広げていきました。創作活動と並行していくつかの美術大学でも指導にあたりました。1978年には文化功労者に選出され、1991年には文化勲章を受章。1992年没。

4.福沢 一郎の絵画代表作品とは

  • よき料理人(1930年)
  • 煽動者(1931年)
  • 敗戦群像(1948年)
  • トイレット・ペーパー地獄(1974年)

5.福沢 一郎の絵画作品の買取査定ポイントを解説

真作であることが何より重要なポイントであるため、証明書や鑑定書がある場合は高額査定が期待できます。作品の来歴、制作年代や題名がはっきりしているかどうかも査定の際に重要なポイントです。

代表的な絵画作品の査定ポイントはこちら
  • 本物の作品であるかどうか(証明書や鑑定書があると尚良い)
  • 保存状態は良好か(画面のシミや破れ、絵の具の剥がれがないか)
  • 作品に署名があるかどうか
  • 大きさはどれくらいか

6.福沢 一郎の絵画作品の取引相場や参考価格

インターネットのオークションにも作品が多く出品されています。例えばヤフーオークションでは10号ほどの油彩画『牧神』には13万1,000円の値がつきました。状態は目立ったダメージがなく概ね良好で、額の大きさはおよそ71cm×63.5cmで、画面左下に本人のサインが確認でき、本人直筆の作品の証明書がついているものでした。2019年に大規模な回顧展が開かれたこともあり、人気が再燃しマーケットでの価格が今後さらに高まる可能性もあります。真作であることが条件ですが、状態の良いものや代表作であれば査定額が高まる傾向があります。

7.福沢 一郎の絵画作品の買取についてのまとめ

人間という存在、そして人間が作り出す社会の様相を見つめ、ユニークな作品を作り続けた福沢一郎。一度目にしたら忘れることのできない力強いインパクトがあり、ときに人間に宿る普遍的な生命力が感じ取れる作品は、現代に生きる人々からも多くの共感を得ています。福沢一郎の真作でさらにサイズの大きい代表作となれば数十万円を超えることも珍しくはないでしょう。福沢一郎の作品をお持ちの方はぜひお問い合わせください。

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