朝井 閑右衛門(あさい かんえもん)の絵画買取なら高額査定の可能性!SATEeee絵画買取へ
1.朝井 閑右衛門の絵画作品を売りたいお客様へのご案内
朝井閑右衛門は、知る人ぞ知る昭和の洋画家です。戦前、官展の鬼才として有望視されながら、戦後は日展ではなく、自ら設立に参加した新樹会展や国際形象展といった限られた機会にのみ作品を発表し、美術館での個展の開催も固辞し続けていました。そのため、広く名前は知られていないかもしれませんが、その奇人とも言える孤高の生涯と、類を見ない特異な作風から、専門家を含め熱狂的なファンが存在しています。草野心平や三好達治といった詩人たちとの交流でも知られ、今でも一部の根強い愛好者から評価されています。
このページの目次
2.朝井 閑右衛門という絵画作家について
朝井閑右衛門は、出世作である『丘の上』において、サンドロ・ボッティチェリやパブロ・ピカソといった過去の巨匠を参照しながら、大画面の群像を見事にまとめあげた構成力が評価されました。横須賀時代には、バラや三好達治といった詩人の肖像画、電線風景、不動明王、そしてドン・キホーテやサロメといった主題を繰り返し描いています。その特徴的な厚塗りの表面から、ジョルジュ・ルオーの影響が指摘されています。多種多様な要素を組み合わせ、削ったり描き加えたりすることを繰り返して生み出された重厚な画面には、豊かな幻想性がただよっています。
3.朝井 閑右衛門の絵画作家についての経歴など
朝井閑右衛門は、本名を浅井実といい、1901年大阪で貿易商を営む一家に生まれました。家庭内の諍いのため、広島の祖父母に預けられたのち、画家を志して上京、本郷洋画研究所に学びます。1932年に第13回二科展に、1934年には第15回帝展に初入選を果たし、1936年『丘の上』が文部大臣賞を受賞して官展の新進作家と見なされましたが、戦後、官展からは距離を置くようになります。従軍画家として渡った上海から引き揚げ後は横須賀を拠点に制作を続け、川端実や須田剋太らと新樹会を結成しました。1966年、鎌倉に転居後はリウマチに悩まされながら制作を続け、1983年に逝去。鎌倉の極楽寺に埋葬されました。
4.朝井 閑右衛門の絵画代表作品とは
- 丘の上(1936年)
- 電線風景(1960年)
- 仕事場(メキシコ犬のある)(1964年)
- 薔薇(法華壺)(1981年)
5.朝井 閑右衛門の絵画作品の買取査定ポイントを解説
朝井閑右衛門の買取査定にあたっては、まず画家の真作であるかどうかが重要なポイントです。独特のサインがあるか、証明書が付帯されているかなどを確認してください。また、サイズが大きく、出来栄えの良いものほど高く評価される傾向にあります。展覧会への出品歴や、雑誌等への掲載歴、剥落がないかどうかといった状態も価格に反映されます。朝井閑右衛門は、なんども描き直した遅筆の画家として知られ、残された作品数はそれほど多くありません。意外な高値が期待できるかもしれませんので、作品をお持ちの方は、ぜひ一度査定に出してみてはいかがでしょうか。
代表的な絵画作品の査定ポイントはこちら- 画家の真作であるかどうか
- サイズは大きいかどうか
- 出来栄えはどうか
- 出品歴、掲載歴があるか
- 剥落やシミ、カビなどがないか
6.朝井 閑右衛門の絵画作品の取引相場や参考価格
浅井閑右衛門の作品は比較的少ないながら、しばしば二次市場の画廊での取引があります。価格を公開している画廊では、8号(27.5 cm×46.6cm)の『ピエロの行進』と題された作品が81万円で販売されています。東京美術倶楽部の鑑定書付で、24.4cm×33.4cmの花をモチーフとした作品がネットオークションで64万9,000円で落札された例もあります。同作品は状態が良く、デコレーション額とかぶせ箱も揃っていました。出来栄えもよく、展覧会歴や掲載歴が分かる資料が揃えば、いまも愛好家がいる人気の画家ですので、意外な高額査定がつく可能性もあるでしょう。
7.朝井 閑右衛門の絵画作品の買取についてのまとめ
朝井閑右衛門は、生前には展示の機会が少なく、また孤独の中で制作したため、決して広く知られる存在ではありませんが、その生き方や独自の画風から、草野心平をして、「独創傑出の画家」と言わしめました。深みを持つ分厚い絵肌と幻想的な雰囲気から、いまも一部のファンの心を掴み続ける本画家の作品は、出来栄えやサイズなどによっては高額査定が期待できます。朝井閑右衛門の作品をお手元にお持ちの方は、ぜひ一度、ご相談ください。
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