平野 遼(ひらの りょう)の絵画買取なら高額査定の可能性!SATEeee絵画買取へ
1.平野 遼の絵画作品を売りたいお客様へのご案内
平野遼は1927年大分県に生まれ、独学で絵画技術を習得しました。肖像を通して、人間のさまざまな感情を描き出し、人間という存在に向き合い続けた画家でした。細かな線描表現による人物描写にはジャコメッティを彷彿とさせる魅力があります。存命中より美術館で個展が開催されるなどその画業は高く評価され、現在も平野の作品を入手したいというコレクターも多く存在します。真作の油彩画であれば数十万円程度の高値がつく可能性も期待できます。
このページの目次
2.平野 遼という絵画作家について
平野遼は独学によって独自の絵画表現を切り拓いた画家です。残された作品のうち画題のほとんどは人物像で、群像作品も多く手がけました。暗いトーンの色彩の中に細く力強い筆致で、時にはデフォルメを加え人物の姿を描きました。作品には北九州市立美術館や福岡県立美術館などに収蔵されています。存命中から北九州市立美術館や下関市立美術館で展覧会が開催されるなど、九州地方を代表する画家としても知られています。1987年にはその功績が称えられ、西日本文化賞を受賞しました。
3.平野 遼の絵画作家についての経歴など
平野遼は1927年、大分県北海郡佐賀関町に生まれました。本名は明。戸畑男子高等小学校(現在の沢見中学校)を卒業後、独学で絵を学びました。1949年には新制作派展に初入選を果たします。1951年に自由美術家協会展に出品。1957年には北九州市若松のドガ画廊で初個展を開催し、以降国内各地で個展を開きます。1964年に主体美術協会の創立に参加しますが、1975年に退会しました。1986年には池田二十世紀美術館、翌年には北九州市立美術館で「平野遼の世界展」が開催されました。1987年には西日本文化賞を受賞、1990年には下関市立美術館で個展が開催されました。1992年に67歳で亡くなりました。
4.平野 遼の絵画代表作品とは
- 編む女 夫人(1980年)
- 裸形の風景(1982年)
5.平野 遼の絵画作品の買取査定ポイントを解説
査定にあたっては、まず真作であることが最も大切なポイントです。そのため証明書や鑑定書がある場合は高額査定の可能性があります。来歴(過去の所有者など)がはっきりしているかも査定のポイントとなります。また作品の状態、本人のサインの有無も査定価格に影響します。
代表的な絵画作品の査定ポイントはこちら- 真作であること(鑑定書または証明書がある)
- 作品にダメージなどがないか
- 作品にサインあるかどうか
- 作品の大きさはどれくらいか
6.平野 遼の絵画作品の取引相場や参考価格
平野遼の真筆であれば、数十万円の値で取引されることも珍しくありません。例えばヤフーオークションでは、油彩画『青の風景』は25万2,000円で落札されました。画面左下に本人のサイン、またキャンバス裏面に本人自著と作品の表記が確認できるものでした。作品の大きさは98cm×62cm、額のサイズは113cm×77.5cmでした。また、『休む女』と題された油彩の作品には18万3,600円の値がつきました。こちらの作品の大きさは10号で、画面サイズ53cm×45.5cm、額サイズ70cm×62.5cmでした。画面左下には本人のサインがあり、作品裏には題名と本人サインが確認できるものでした。状態は良好で、箱と黄袋も付属しています。作品のサイズが大きい場合や、シミや絵の具の剥落、日焼けなどがなく状態の良いものは高値で取引される傾向があります。
7.平野 遼の絵画作品の買取についてのまとめ
巧みな観察力と描写力によって描かれた存在感のあふれる人物像は、一度目にしたら忘れられない魅力があります。真作であれば評価額が数十万円となることも珍しくありません。これはあくまで本人の作であることが前提ですので、証明書や鑑定書がある場合にはそれなりの査定額が期待できます。保存状態の良いものはさらに高額査定になる可能性があります。作品をお持ちの方はお気軽にご連絡ください。
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